2011年12月20日火曜日

i-SIM News 095/震災にスポーツの価値を問う

本年を振り返る。東日本大震災において被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。私たちの研究所の役割は「スポーツ」や「情報」によって復興に向かう人々を「つなげる」ことです。それは、この極めて大きな災厄を胸に、さらに深くスポーツの価値やその役割を追求し続けることだと考えています。(ISIM 粟木一博研究員)

 今年も暦の上ではクリスマスが巡ってくる。ただ、今年は、贈られるはずだったプレゼント、贈るはずだったプレゼントに思いを馳せるとやりきれない気持ちが募る。平成23年は「スポーツ」をキーワードに集うわれわれに対してその意味と価値は何かという問いをこれまで以上に強烈につきつけた一年となった。
 人の営みはそれが求めるものを直截に反映させる。3月11日に直面した人々は、その当初、当然のことながら「生きるためのもの」(例えば食糧や安全)を強く求めた。東北楽天ゴールデンイーグルスの主軸であった山崎武司選手が「野球やってる場合じゃないでしょ」とあるドキュメンタリー番組でその時の心情を率直に吐露している。ここにスポーツの入り込む余地はあったのか。時間が経過し、避難所生活を余儀なくされた人々はその強く逃げ場のないストレスに苦しんだ。ここでは、スポーツの根幹をなす「運動」がそれを癒したり、そこに端を発する病を防ぐことに役立ったりした。
 さて、半年後、私たちの研究所は第4回国際スポーツ情報カンファレンスを開催した。そのテーマは「大震災 スポーツの明日を考える」である。日本オリンピック委員会(平眞事務局長)からは救急医療チームやオリンピアンの派遣事業といったスポーツを通じた支援活動について、そして、教育の現場(宮城県亘理町荒浜中学校・三浦秀昭教諭)からは、スポーツでの生徒の活躍そのものが「一筋の光明になった」報告を受けた。また、被災した子どもたちに「あしたひろば」と称して純粋に体を動かすことを楽しめる場を提供できた。これらは、社会の復興や震災前とはかけ離れた"非日常"に直面している人間にとって、スポーツがいかなる価値を持ち、どのような役割を果たすのかという問いかけに対する 答えを見つけようとする取り組みであったと言えるだろう。
 これから、復興への長い道のりが続く。宛先を失ったプレゼントを思いつつ、われわれはスポーツに問い続け、語りかける動きを止めてはならない。

2011年12月7日水曜日

i-SIM News 094/メディアの表象

今日の我々の生活が、さまざまなメディアに囲まれていることはもはや言うまでもない。いや、このような受動的な言い方はすでに時代遅れであろう。むしろ、メディアを駆使し意図的、積極的に情報の受容と発信を行わなければ、情報社会の発展に取り残されてしまう時代、といった表現の方が適切かもしれない。(ISIM研究員 林怡蕿=リン・イーシェン)

そこでメディアを使いこなすリテラシー(教養)能力が重要な課題として浮上する。教育現場にいる我々は、現代社会における必要不可欠な「メディア力」の向上について、知恵を絞って力を注いでいる。ここではメディアとの付き合い方について、メディア表象を読み解くことの重要性を取り上げる。
それは英語の「representation」の訳語であることから分かるように、メディアの「表象」とは、メディアを通して社会が再現され、解釈され、そして意味が再生産されていくことである。そこでメディアの表象でカバーできる範囲は、社会の全貌ではなくあくまで一側面、あるいはほんの一部にすぎないということを自覚し、理解しなければならない。しかし、マスメディアによって伝えられたものは、社会の全貌そのものとして捉えられ、無意識に受け入れられてしまうケースが多々ある。
メディア、とりわけマスメディアは言論の自由という理念を掲げ、中立、客観性、不偏不党の報道という規範的信条をその職業倫理として成り立つ社会システムの一つである。こうした社会的言論機関とも呼ばれるマスメディアを舞台に、映像や活字を通して表現活動を行うのはジャーナリストといった人々である。マスメディアは、上述した規範的信条のほかに、作り手の主観的意識の働きを通して、社会の出来事を取捨選択し報道活動を行っているのである。メディアにおける表象問題を考える際に、まさにこうした主観的、意図的、あるいは無意識的に構成される部分に注目しなければならない。メディアは、なにを、どのように伝えているのか。誰のための報道であり、どのような意味を持ちうるのか。これは受け手である視聴者/読者側が常に意識しなければならない問題である。
メディア表象のなかでもっとも批判されるのは、ステレオタイプ(紋切り型)の再生産である。ある先入観、あるいは言説を繰り返して表象し、強調することによって、それが社会の一般認識、あるいは「常識」として定着してしまうケースは多々ある。マイノリティーの人々に対するレッテル張り、偏見の固定化などが挙げられる。さらに言えば、偏った見方の提示に終わってしまう場合もたくさんある。断っておきたいのは、ここでメディアを悪者として断罪するつもりはない。社会に警鐘を鳴らし、聞こえぬ声を拾い、社会全体で共有すべき問題を積極的に取り上げるジャーナリストの努力も、これまでの多くのメディアの映像を通して確認することができる。しかし、ここで強調したいのは、メディアの表象や言説内容に対して、受け手側のもつべき批判的に読み解く姿勢である。そうなるためには、やはり多くのメディア言説に接触し、異なる立場の意見を取り入れ、複眼的に比較し考える努力が必要とされる。ますます複雑化し、断片化していく情報社会との付き合い方を考える際に、まず自分のメディア表象を読み解く能力に磨きをかけることから出発するのが一つ有効な方法なのかもしれない。