2011年9月21日水曜日

i-SIM News 089/第4回国際スポーツ情報カンファレンスの報告

 第4回国際スポーツ情報カンファレンスが9月11日(日)、仙台大学を会場にして開かれました。今回のテーマは「大震災 スポーツの明日を考える」。カンファレンスはF棟101教室で、第4体育館では宮城、岩手それに山形から子どもたちに集まってもらい「あしたひろば」が開かれました。(ISIM齋藤研究員)

 県内、県外で教育やスポーツなどに関わっている人たちが参加したカンファレンスは公益財団法人日本オリンピック委員会の平眞事務局長が「東日本大震災後/これからの取り組み」と題したオープニングセッションで始まりました。このなかで大震災後、JOCは初めて、救援医療チームを被災地岩手県大船渡市に派遣したこと、救援物資として1万点以上の衣類などを送ったこと、避難所へオリンピアンを派遣したことーなどこれまで行ってきた支援活動を報告しました。また、今後、被災地で「ミニオリンピック事業」を展開、第1回は10月10日(体育の日)に仙台市の陸上競技場で「ミニオリンピックin 仙台」を開催し、被災地の子どもたちに対して支援活動を行っていくことを明らかにしました。
 続いて「メディアから見た『震災』と『スポーツ』(仙台大学・齋藤)、(財)日本卓球協会常務理事・強化本部長の星野一朗氏が「競技団体からみた『震災』と『スポーツ』」、宮城県亘理町荒浜中学校教諭の三浦秀昭氏が「教育現場からみた『震災』と『スポーツ』」と題して情報提供を行いました。このなかで星野氏は競技団体として模索した長期的な支援策や義捐金の募集、送金、卓球台140台を被災地に送ったことなど震災復興活動を報告しました。続いて三浦氏は学校が津波で現在も使用できない荒浜中学校の現状を震災が起こった3月11日から時系列で被災状況を報告しました。それによりますと3月11日は卒業式があり生徒は下校し職員だけが在校していたこと、地震の後、地域の人たち約500人が荒浜中に避難してきたこと、そして巨大津波が襲来。ようやく自衛隊のヘリで屋上から救出されたのは2日後のことだったということです。また、職員室も津波に襲われ、顧問をしているソフトボール部のスコアブックなどのパソコンデータもすべて失いました。自身も自宅が津波被害を受け、現在も名取市内にアパートを借りて家族で暮らしているということです。そうしたなか、中学校は同じ町内の中学校の一角を借りて授業や部活をしていますが、危うく中止になりそうだった中総体でソフトボール部やソフトテニス部などの部活が大活躍してくれたことは、先の見えない絶望的な状況の中で「スポーツの力」によって一筋の光明が見えたという話をしてくれました。三浦先生の生々しい体験に会場に集まった人たちも真剣に聞き入っていました。
 昼食・休憩を挟んで午後のプログラムが始まりました。カンファレンスの参加者はまず、第4体育館で行われている「あしたひろば」を見学しました。「あしたひろば」には地元宮城県から19人、岩手県から5人、山形県から6人のあわせて30人の子どもたちと石川県加賀市の石川県大聖寺高校の高校生3人、それに仙台大学の学生が参加しました。午後からは研究所の教職員の指導の下、子どもたちは1チーム6人にわかれ、5つのゲームを体と頭を使って思いっきり楽しみました。研究所がタレント発掘事業で培ってきたプログラムのなかでも盛り上がったのは、バトン大の円筒を半分に割った筒状のものを持ってピンポン玉を落とさないように10メートルほどを折り返しながら移動するというゲーム。失敗するたびに元に戻らなければならず、体育館中、子どもの元気な声が響き渡っていました。すべてのゲームがコミュニケーションを取らなければ成功しないというゲームになっており、子どもたちは心を一つにして遊びを楽しんでいるのが参加者にもわかりました。
 午後のカンファレンスは研究所の阿部篤志研究員の「子どもたちがスポーツを通して大震災を乗り越えるために」という情報提供で再開しました。阿部研究員は自身も参加してきた「第1回ユースオリンピック」などの体験を踏まえ、スポーツと文化教育プログラムを結びつけた活動の重要性を指摘した上で今後、仙台大学は被災地にある大学として被災地からのニーズになっていないニーズを拾い上げ、それを競技団体やスポーツ施設、専門家などと結び付ける「スポーツ&ヘルスコンシェルジュプロジェクト構想」の中核を担っていかなければならないーと提言しました。
 カンファレンスの締めくくりは「未来の担い手、子どもたちのあしたを考える」というシンポジウムでした。コーディネーターは仙台大学スポーツ情報マスメディア研究所の山内亨所長で、パネリストは(財)日本卓球協会常務理事・強化本部長の星野一朗氏、宮城県亘理町立荒浜中学校教諭の三浦秀昭氏と仙台大学の中房敏朗教授の3人です。このなかで、支援を行う側と支援を受ける側の温度差が大震災直後と現在とではかなり大きくなってきたのではないかという問題が話し合われました。非常事態という非日常を日常に戻すためにはどういった支援を行っていくべきかを悩む中央の競技団体と、「支援慣れ」してきた支援を受ける側という構図ができてきたことが浮き彫りになりました。
中房教授は最近デジカメで撮影してきた被災地の現状を紹介し、未だ復旧には程遠い現状を説明。そこに原発事故による放射性物質に怯えるという目に見えぬ恐怖が加わってきた、と指摘。こうした状況下で体育大学が何をなすべきかについて、学生に「人間力」と「社会力」を涵養し「スポーツ市民」として社会に送り出してやるという地道な教育ではないかとまとめました。
 続いて、話し合いを聞いていた三浦秀昭氏からは「実は先ほどまで暗澹たる気持ちで何もする気が起こらなかったが、今日のカンファレンスに参加して少し気持ちが変わってきた。これまで非常時に人と人が争うスポーツなんてと思っていたが、いま思い出したことがある。それは部活のソフトボールがとても苦手だった部員に中総体後、『先生、やってきてよかった』と言われたことだ。自分も仙台大学を卒業して長いこと体育教師をしてきたが最近はスポーツのことなど考えることも無かった。だがもう一度、スポーツの良さや力を改めて考えてみようと思った」と語り、被災した教育現場の最前線に立っている人だけにしかできない発言に出席者も熱心に耳を傾けていました。
このあと、研究所の粟木一博副所長が「あしたひろば」に参加した子どもたちが書いてくれた短冊で作った大きな木の絵を紹介、子どもたちが今日一日、十分に楽しんでくれたとあいさつ。
 最後に会場では仙台大学の女子バレーボール部が南相馬市の体育館で子どもたちにバレーボールを指導しているビデオが流されました。その中で、子どもたちがいま思っていること、したいことをカメラに向かって思い思いに話をしてくれました。多くの子どもたちの発言は特別なことではなく当たり前のことを当たり前にできるようになりたいのだ、というものでした。
 これを受けてコーディネーターの山内所長が「この子どもたちをはじめ、福島の子どもたちにはきょうの催しに参加してほしかったが、叶わなかった。福島の子どもたちには各方面からの呼びかけは数々あるが、被災地側は手一杯で移動やケアなどすべて呼ぶほうでやってもらうということでなければ子どもたちは預けられない、ということだった。震災後半年たって被災地、被災者のニーズは多様化している。それに対して支援する側は十分に対応できていないのではないか」と説明。最後に南相馬市の関係者が「被災地を支援したいという社会貢献のオリンピックが始まったようだ」という被災地からのシニカルとも思えるような声を紹介、現在行われている中央などからの支援のあり方を見直し、あくまでも被災地の現状に合わせた支援を行うべきだとまとめ、カンファレンスを閉会しました。

2011年9月7日水曜日

i-SIM News 088/東日本大震災から半年

1万人以上の命をのみ込んだ東日本大震災から半年になろうとしている。この間、スポーツ界からも様々な支援や協力が行われ、被災地にスポーツを通した想いが届いている。
スポーツに関わるものとして、いつもスポーツの価値について考えているが、大震災で一層スポーツが持つ力について考えることが増えた。この半年間、時間の重さと経過を感じながら、私が経験し、感じた阪神淡路の震災を思い出した。(ISIM 藤本研究員)
阪神大震災時に高校生だった自分には、悲惨な状況下で「スポーツでできること」という発想は皆無だった。ただただ自分ができることをひたすら考え、無い知恵を搾り出していた。その時、あるニュースで、ビルの倒壊、瓦礫の散乱、移動ルートの寸断等が目に飛び込んだ。「バイクや車は道路が寸断され移動が困難」というアナウンサーの言葉が映像と共に流れた。映し出された映像に自転車で移動する被災者の姿があった。ふと、移動は自転車が有効になるだろうな・・・と思ったことを契機に、単純に「チャリンコを直しに行こう」と思ったのを覚えている。
修理やメンテナンスは、自転車競技の選手として欠かせない能力の一つでもあるが、自転車競技をする前から、私は物(主に機械類)の構造に興味があり、触ったり、バラしたりと、とにかく触るのが好きだったこともあり、自転車は恰好の対象でもあった。
現地では、"誰かが使うかもしれない""使った人が、あって良かったと思ってくれれば"の想いや、"こんなことをしても、誰が使うのか""もしかすると使われずにゴミと化すかもしれない"—。こんな自分の心の葛藤を押さえつつ、自転車を直すために、焼け焦げたもの、瓦礫の中に埋もれ潰れて変形してしまっているもの、こんな状態から少しでも使える部品を集めて修理していた。時には10台分の部品をかき集めて、1台を"再生"することもあった。
また、その場の惨状を目の前にしながら、"自分のすべきことをする"意志みたいな精神力を維持しなければならなかったが、私は、とにかく"目の前にある現実に対して自分ができることを"の一心で、黙々と自転車を直し続けた。
高校生だった自分にできることのあまりの少なさに、情けなさを感じながら、辺りに転がっていたダンボールの切れ端に"使ってください"とマジックで殴り書きし、次の自転車を復活させようと移動した。
個人では無力ではないにせよ、できる規模が小さい。今思えばこのとき"繋がり"があれば、自転車を本当に必要としているところに行き、直すことをやっていれば、もっと有効だったのではないかと思うこともある。
今回の震災は阪神淡路と単純に比べることができないが、人と人との繋がりや絆を復興テーマに掲げているのを多く目にする。阪神淡路の時は野球がいち早く反応し、メッセージを発信していたのも記憶している。今回はサッカー界の対応が素早かった。
スポーツは、そのパフォーマンスを見せることで想いは届けられる。スポーツイベント等でも即効性のあるものも提供できるが、数年、十数年にわたる継続力のある活動になりうるのだろうか。大多数が一過性のものに過ぎないように思う。スポーツが今できることを考える上で、そのネットワークを活かした活動がヒントを与えてくれると感じるが、そこには復興に向けた長いスパンの継続力・持続力のあるつながりが必要であり、そこに関わるすべての人の覚悟と決断が必要ではないかと、今改めて感じる。